紅葉と秋晴れが共演する11月23日(土)午前10時から、恒例の弁財天・筆供養祭が営まれました。境内の樹木は紅葉で赤や黄色に染まり、圓山が一年中で最も美しく装い、輝く時季でもあります。
早朝岡山福田海から駆けつけた山伏が,願文を読み上げた後、護摩壇に火をつけ、僧侶が般若心経を唱えるなか、使い古した筆やペンの他、集まった人達の家内安全など願文を記した護摩木が、次々と火中に投げ入れられ、高く燃え上がる炎に向かって全員が合掌して供養した。
この日の勤労感謝の祝日は、紅葉の名所が多い京都でも弁財天・筆供養祭や紅葉狩りが各寺社で行われ、どこも行楽地は大変に賑わったようです。
現代では「紅葉狩り」というと華やかな行楽をイメージしますが、平安時代は仏教など当時の宗教観から、深山を赤く染める紅葉を観て「もの悲しさ」を象徴する色であったようです。人々はそこに異界のおどろおどろしさを感じたのかもしれません。その後段々と室町、江戸時代をくだり紅葉を楽しむようになった。時代によって随分感じ方が変わっていくものですね。
赤や黄色で染め上った境内に立ち上がる護摩壇の炎に手を合わせながら思った。
人は独りでは生きて行けない。動物や植物といった自然環境から命をもらって生活している。自分の生活をより豊かにするために沢山の物を消費し、同時に多くの物を排出している。言い換えると人間は自然を利用し、搾取しているだけなのだろうか。私達は「共生」という持ちつ持たれつの関係から、自然という大きな生態系の共生の輪に組み込まれた人間なのだ。平安時代のように「紅葉からやがて冬に向かう」という負のイメージではなく、「自然と共に生きる」というポジティブな意味で生きて行たいものだと感じたのです。
祈祷の後元勝和尚が参詣者に述べた言葉にもその様な意味が込められていた。